アダムとイブの楽園追放は、「原罪」ではなく、神からでさえも「自由」になった、それこそが人間の尊厳だ、というお話
アダムとイブの話はキリスト教徒でない日本人でも有名だと思います。
神様に作られた人間のアダムとイブは、楽園で裸で幸せに暮らしていました。
しかしそこにずる賢いヘビがやってきて、
りんご(知恵の実)を食べるようそそのかします。
アダムとイブは神様から食べてはいけないとされていたりんごを食べて、自分達が裸でいることに気づくと恥ずかしく思い、隠そうとします。
それに神様が気づいて、アダムとイブがりんごを食べたことを知り、二人が罪を犯したとして、楽園から追放しました。
それから人間の苦難の人生が始まり、人間は生まれた時から原罪を持つ存在になった、 というお話です。
しかし、 もともとの旧約聖書の解釈は全く違っていたそうです。
人間が恥ずかしく思うようになったというのは、知恵の実を食べて、自我を持ち、自分で物事を考える、分別を持つようになったという意味です。
そして人間は、神様に例えしてはいけないといわれていることでも、選択、実行する自由を持っているという解釈です。
楽園追放は、むしろ神様の許しを請うのではなく、人間は自我を持ち、考え、選択、行動する自由を手にしたことを表します。
それはもちろん苦難の道でしょう。
自分で考えなきゃいけない、自分で自分を律しなきゃいけない、行動しなきゃいけない、責任を持たなきゃいけない。
しかしそこには自由がある、人間の尊厳があるのです。
それこそまさに、他の動植物とは一線を画す「人間の特権」なのだろうと、改めて思います。
人間の本性は、悪なのか、善なのか。
そうではなく、人間は、悪でもあり善でもありえるのです。
それを自分で考え、選択し、行動することができる、それが自由なのです。
しかし、この自由を行使しない人もたくさんいます。
また、この世はなんでも決められていて不自由だと不満を言う人もいます。
それは少なくとも今の日本では嘘であって、誤魔化しです。
なので、そういう人たちは、そんなに気にしなくていいと思います。
私も、ちゃんと自由を使えているだろうか、と反省です。
自由とは、自分に理由と書きます。
自分が理由を持って考え、行動できているだろうか。
なんだかんだ言って、誰かに決めてもらうのは楽ですし言われたことをするのは簡単な時もありますからね。