起業に至る22歳までのこと 18歳引きこもり休学19歳訪問営業とキャンギャ20歳復学学生団体21歳航空から哲学科転部22歳起業
起業に興味がある学生さんにとって何かの参考になればと思い、久しぶりに自分なりの過去を思い出してみます。
天才児の末路?
話は幼稚園時代までさかのぼります。
幼稚園時代母が少しお受験ママだったというのもあって塾に通っていました。
その際測ったIQが180。全国試験でも国語は2桁位でしたが算数は全国一位。
幼稚園生にどんな試験・・・?と思うのですが、私が算数で単独一位になったのは、私だけが解けた問題があって、それは水がいっぱい入ったコップに石を入れたら水はどれだけこぼれるか?という問題でした。
私は何も考えずに石の大きさ分、と書いたらそれができたのが私だけだったので、一位になれたそうです。
大人になれば当たり前なんですが、幼稚園児で解ける子が少ないようですね。
そういうわけで私は周りから天才児扱い。ですが本人はそういう大人の手のひら返しに困惑しました。窮屈。怖い。
何をやっても、何を言っても「天才!」「さすが!」と言われてしまう。
母親に対しても正直不信感を持ちました。←ということを以前カウンセラーさんに話してみたら、そういうところが「ませた子供」≒頭のいい子供らしいです。
お受験にそんなに目標もなく、勉強が好きだったわけでもないのでやる気もなく。
それでも周りからのプレッシャーで有名私立の受験日には毎回お腹が痛くなりました。
結果は惨敗。地元の公立に通うことになったのですが、母の気落ちはここでは書けないほどのものでした。
私は落ちてほっとしていたのですが、周りはそうではなかったのですね。このあたりから私のトラウマが形成されます。
小学校一年生で、男子生徒達からイジメ
公立に入ったはいいものの、少しずつ、男子生徒達からのいじめにあうようになります。
理由やきっかけは覚えていないのですが、多分私の反応が面白かったんだと思います。
鶏小屋に閉じ込められたり、鉛筆で刺されたり、体育の授業の前後で着替える時は羽交い絞めにされて服を脱がされたり。
小学校一年生なので、「いじめ」って言葉を知らないんですよね。だから「なんでこんなことするのか?」と私は普通に聞いてしまう、でも相手はみんなへらへら笑っていました。
それに対して私はやはり普通に怒ってしまう。その様が面白かったのだと思います。
毎日あざやみみずばれを作って帰りました。でも母はその時はまだ受験失敗のショックが残っていて、なるべく私のことを考えないように、見ないようにしていましたし、私も母に怒られるかもしれないなら、いじめの方が我慢できたので何も言いませんでした。
しかし私の同級生の女の子が、母親に私のことを言っていたそうで、母親同士の会話で母は私がいじめられていることを知ります。
そこで母は姉の通っている私立に転校する?と聞き、私は男子生徒がいない学校に行けるならいいと思い、女子校に転校することにしました。
18歳で第一志望の大学に落ちてトラウマ復活
18歳までもそこそこ色々あったのですが、一番転機になったのは18~19歳の時です。
第一志望校に落ち、でもそこまで第一志望にこだわっていたわけでもなかったので、まぁいいか、と通い始めます。
夢のキャンパスライフ!とその時は思っていたので。
でも実際に大学に行くと、理系だったのもあって周りは男だらけ。
明るくて良い人たちばかりでしたし、私もいつまでも男性と話さないのはよくない、となるべく話すようにしました。
でも少しずつ、彼らの小さな行動、発言を私は理解できずに不安・不満に感じ始めます。
誰誰とよく話してるけど、あいつは彼女いるよ?と言われ、
私は相手のことなんとも思ってないのに、なんで普通に話してるだけでそんな風に思われなきゃいけないんだろう、と思うと少しずつ男性と話すのが怖くなって。
そもそも新歓コンパなども、当時はお酒の席を面白いと思えずバカ騒ぎすることにひいてました。
ある男性の同級生が、
女性に対して、「えー。処女なの?処女なの?」とふざけて笑いながら大きな声で話していて、その女性は困惑していて、それを見て私のトラウマがどっと出てきました。
自分が面白いと思ったら相手のことお構いなしでそういうこと言えてしまうところが、小学校のころの男子生徒とかぶったのだと思います。
今思えば男性に悪気はなく、周りも「子供だな」で済む話なのですが。
それから大教室での授業でドアを開けると、男性が300人ほどいて、みな笑って話しているのを見て、気持ちが悪い、と思うと、足がすくんで吐き気が出てしまい、もう入れない、と思いました。
予備校からの転部の決意
とにかく大学には行きたくなかったのでやめる事を決意したのですが、親からは休学を進められ、大学やめてもやることなかったので、勉強をしようと思い予備校生活になります。さすがに何もしないというのが選べなかったのだと思います。
そこではほとんど誰とも話さなかったと思います。
当時唯一話しかけてきた女の人は、今10年たって私に話しかけていた理由をひょんなことから聞くのですが、
「予備校の雰囲気にのまれて友達作っているような人たちとは違うオーラがあって、この人なら話しかけても自分のペースを乱されないと思ったから」だそうです。
そういえばどこの予備校もそうなのかわかりませんが、煙草吸ったりお酒飲んだり、彼氏彼女作ったり、友達作って遊んだりする人たちもいました。
そういう人への許容力がなかった時期でした。予備校生は勉強が最優先でその他はいらないと思っていました。
とにかく勉強はするのですが、いよいよ受験が近づくと、自分の中でどうすればいいのか分からず、毎日死ぬことばかり考えていました。
受験しなくちゃ、勉強しなくちゃ、なのに全然頭に入らない、どこの大学行きたいという思いも出てこない。
夜寝るたびに苦しくて辛くて泣いていました。
そんな時、たまたま速読の練習のために読んでいたヘルマン・ヘッセの「デミアン」で「数学が得意だからと言って数学者になる必要はない」という一説に出会います。
その時、脳天を打たれたように思いました。なんでもない一説なのですが。
自分は理系が得意だったけれど、理系に絞る必要はないんだ、と思うと、センター試験のために勉強していた倫理が一番勉強している時間が面白い、ということに気づきます。
自分はせっかく大学に行くなら将来の就職などを考えずに自分の好きなことを思いっきり学びたい!と思い哲学科転部に決めました。
するとそれまでの死にたいという思いはなくなり、自分に何かが戻ってくるのを感じます。
そこからすべてが変わる
最初は親になんて言おう?と思いました。自分の中では決定事項だったのですが、母が許してくれるイメージができなかったからです。
なんのために予備校いったんだ、T大に行くんじゃなかったのか、と言われると思いました。
でも言うしかないので勇気をだして言ってみると、「やりたいこと見つかってよかったね」と言ってくれました。
私の中ではずっと母はお受験ママで、良い学歴でないと認めてくれないと思っていたので、
この時、人生で初めて心から「ごめんなさい」と「ありがとう」が出てきました。
母は母なりに私のことを思ってくれていて、それを私がずっとねじ曲げて受けとっていただけなんだということに気づいたのです。
この「ごめんなさい」と「ありがとう」が私を変えます。
転部を決めたら、大学に戻るだけではまた登校拒否になるかもしれない、という思いと、両親に私が「変わった」ということを感じてほしい、と思いました。
そこで、人と話せるようになる、ことと一人暮らしをする、が大学復帰前の目標になり、そのためにやりたくないアルバイトをやってお金を稼ぐ、ことを目標にしました。
まずは平日は訪問販売。初対面で人と話すのが怖かったので、これはかなりハードルが高かったです。何度ばっくれようと思ったかしれません。※変なツボとかお布団は売ってません(笑)
でも売れなきゃお金にならないだけなので、とにかくピンポンをしなければなりません。
そして土日はキャンペーンガール。とにかく、話せませんでした。マイクもって、話すことを紙に書いて同じこというだけなのにかみかみ、マイクごしだから余計ぼそぼそ。
何度もため息ついて何度もトイレに行って泣きました。
どちらのアルバイトも心底、もう嫌だ、もうやめようと毎秒毎分思ったのですが、そのたび「ごめんなさい」と「ありがとう」の気持ちが沸いてきます。
あの「ごめんなさい」の気持ちを嘘にしないため、「ありがとう」を形にするため、踏みとどまりました。
あと、情けない自分がいやでした。
結局、自分は大学から逃げたんだ、という思いがあったので、もう逃げるのはみっともない、もうそんな逃げていい年齢じゃない、と感じていました。
進撃の私
あまりにもうまく行かず苦しい毎日の中、ある日、振り切って、自分なんか捨てよう、と思い始めます。
だって、変わりたくてアルバイトやっているのだから、前の自分のまま、変わるなんて無理なので、別人にならなければ、と。
ちょうど訪問販売もキャンペーンガールも、前の私のことを知っている人なんていないのです。
なのである日自分の中ではものすごい大きい声を出してみました。めいいっぱい明るく元気な人を演じようと。
すると、最初はかむのですが、訪問販売も、キャンペーンも、1日やっているので、百回以上失敗できるのです。
その前までもっと大失敗状態なので、大声出して失敗してもそんなにダメージはありませんでした。
すると、少しずつ慣れてきて、その数週間後には訪問販売でもキャンペーンガールでも、週間、月間の最優秀賞に選ばれます。
※このときの営業ノウハウなどもいつかお話できればと思います。この経験が独立した先である程度は助けになりました
人と話すことが楽しくなっていきました。お金もたまり、一人暮らしを自分のお金だけで始めることにします。
学生はチャンスの宝庫
大学生に戻ると、周りの学生たちが若く、幼く感じました。
怖いものなし!という調子乗った学生だったと思います。
唯一面白い経歴だな、と思う大学四年生の男性に会い、その人が学生団体をやっていたのでそこに入ってみると、いろんな会社の経営者さんとお会いすることができました。
とても面白く、学生ってだけで色んな人があってくれる、話してくれるものだなと感じました。
その中でもまた特におひとり、素晴らしいと思える方がいらして、その人のお話を聞いているうちにビジネスに興味を持ち始めます。
当時航空から哲学科に転部を教授や大学の人たちに相談すると、みな口をそろえて理系女子の方が就職先はいくらでもあるのに、哲学科にいっても就職が難しい、と言われました。
ならば自分でお金を稼いだ経験があれば、就職するときも多少は有利ではないか?という学生の浅知恵が働いたのです。
そしてその方からビジネスを学び、大学三年生の夏休みに資本金10万円で1週間の準備でネットショップを始めます。もともとITは好きでしたし、そういった会社の社長さん方に話は聞いていてアルバイト経験もあったので当時の最先端の知識がありました。
すると初月で100万円近くの売り上げが立ち、アルバイトさんを雇って二カ月目も100万円の売り上げを出します。
そうこうしていたら、大手企業などから相談を受けるようになり、大学も始めるので一度ネットショップは締め、相談の仕事を不定期で受けるようになり、セミナーなども依頼されてやるようになります。
そんな内容をブログで書いていたら、テレビ取材なども受け、気づいたら女子大生起業家になっていました。
当時知り合った都内の有名な若い社長さんたちは、5年以上経ってもいまだに何かとすれ違うことも多く、ご縁は面白いなと感じます。
よく起業できましたね!と言われるのですが、私にとっては留学感覚くらいでした。
みんなよく留学経験が就職に有利と思う人もいらっしゃると思うので、それと同じです。
そのために100万円使って海外体験だけを得るなら、私は10万円で経営を体験してみるのは悪くないと思いました。
起業したいという学生に言えること
振り返ると、結局才能よりも「意思」が大事だと思います。どんなに才能があっても望んでいなければ何も手に入らず、自分が本当に欲しいと思うものでなければ、その才能は生かされないようになっているのだなと。
母は私にいい大学に行ってほしかったとしても、私は自分の頭は大学受験よりもITや営業やビジネスや哲学に使いたいと思っていたんだと思います。
如実にうまく行くときはそうで、うまく行かない時もそうでした。
そう考えると、生きるというのは案外指針がちゃんと自分の中にあって、それに向き合えば気づける環境もあるということだと思います。
自分には才能がない、という人がいます。
本当にその人に才能があるかどうかというのは誰にもわかりません。
ただその「才能がない」ことを言い訳にしてあきらめるか、
違うことをやるか、もっと工夫をするか、の差があると思います。
心を透明にして意思をはっきりさせた時、腹をくくった時、才能がばきばき音を立てて自分の中で育っていく、そういう経験があるのは人生を豊かにします。
今までと違うことがしたいならば、今までの自分と決別し、変わる必要があります。
人は変わりたい、と言いつつ、私の知る限り99.9%が変わることを怖がります。
でも、私が思うに、今の自分は、本来の自分じゃない、ということ、今の自分は本来の自分から歪んでいること、に気付けば良いのです。
私は自分が変わるきっかけは、自分を情けない、みっともない、と心から思ったことです。
人のやさしさに気付かず調子に乗って、少し勉強ができるくらいで勉強に逃げ、学生時代は勉強くらいしかまともにしてこなかった自分。
大学に入ったら勉強に逃げられなくなって、結局小学校の頃のトラウマを持ち出して、人から逃げて、また勉強に逃げて。
逃げた先には何もないどころか毎日死にたくなる苦痛があることは、もう知りましたし、こんな情けない人間を許してくれていた人へのごめんなさいとありがとうにしがみつく以外、もうできませんでした。
学生時代にたくさん傷ついて死にたくなって、それでも生き延びた人ってやっぱり強いと思います。
歳をとって死にたくなるとなかなか大変ですから。
偉そうに大したことないことを書いてみましたが、面白ければ幸いです。