WISEの本気の革命ブログ!

大学三年生で起業してはや9年目。自分に何が出来るのか模索してます

WISEのビジネスマインドブログ「この時代、日本において、「失敗」した時のたった一つの対処法」

InfiniteChange株式会社のWISEです。

弊社は、「己の志、信念を持ち、真っ当に生きることができる社会」を目指し、「起業・フリーランスの独立支援企業として、人間性をもって一線を画すこと」を目標にしています。

弊社に関わるクライアント、協力・支援企業の方々には、「自分の道を知り、歩み、本気で生きる喜びと、それを通して社会貢献する達成感」を提供させていただきます。

そのために、知識・実績のみならず、精神性を大事とし、尊敬、目標とされる人物になることを一同目指します。

 

まずは、本気で生きる、本質を自分に持つことから、「自分自身の人生が始まる」ことを提唱するため、本ブログを開設し、代表である私自身が、本気で自分の中の本質について模索、語らせていただきます。

 

これからの日本、世界が、50年、100年後、心から生きることを楽しむ人がもっと増えることを願って!(^O^)

 

この時代、日本において、「失敗」した時のたった一つの対処法

実は、私のブログは、というより文章は、あえて「読みにくく」しているつもりです。

起承転結もすっ飛ばし、話もとっちらかり、結論や補足説明も曖昧で、逆に多すぎることも。

でも、あえてそうしているのは、わかりやすい文章だけが心に残るわけではないと考えているからです。

わかりやすいと、なんか、「正しそう」じゃないですか。

私は、自分の意見に納得してほしいのではなく、自分で考えてもらうために読んでほしいと思っています。

正しいことのようだけど、間違ってもいる気がするし、本当に?なんかひっかかる、なんかよく分からない、ん?が頭の中に残る。

そうすることで、頭が自然と動き出す。

そうやってあえて「疑ってほしい」=「考えてみてほしい」です。

だから、「あれってどういうこと?」って聞いてもらえると嬉しいです。

そう、実はあえて端折っているところがあります。

正直、理路整然と書く方が、書き手としてはは気持ちがいいのですが、あえてしていないつもりです。

 

意地悪だと思いますよね(笑)。というより、できないんでしょ?そんな文章書けないんでしょ?もっと、丁寧にでもこ書きなよ、というご意見もごもっとも。

本来、私もそうすべきなのか、そうしたい気持ちもあります。

というのも、こちらも不安なんです。バカだと思われるとか、嘘だとか、適当なことを書いていると思われてしまうことが。

ただ、私は自分の経験上、「親切は人のためにならないばかりか、自分の信頼も失う」ことを知っています。

今まで人にいろいろ伝えよう、と自分なりに努力してきたつもりです。

その時の私の失敗は、最初に正しい(うまく行く方法という意味での)ことを全て相手に伝えてしまうことでした。

それをすると、相手は「私の言いなりになる」か「私の間違いさがしをする」しかなくなってしまいます。

以前、私はよかれと思ってある女性のサポートをしていたのですが、裏で彼女は「私はWISEさんに利用されてる」とこぼしていました。

彼女がやりたいことをどうにかかなえようと自分なりに全てやったつもりでしたが、それが「間違い」なのでした。

 

サポートとリーダーシップは別物で、さらには私が考える事は、「相手を主役」にすること。

これは当たり前なのですが、全ての人は、自分自身にとって「主役」「主人公」です

主人公とはどういう存在でしょう?

漫画やアニメ、小説として考えると、サポート役の人物とは、主人公が困っているときに初めて手を差し伸べるものであり、

主人公が自分で苦悩したり努力したりせず、師匠みたいな人があれこれ先回りして指示出して、それの言いなりになっている主人公のストーリーはつまらないですよね。

 

だから私は相手の「失敗」や「苦悩」を嫌うことをやめました。

 

昔は怖かったです。自分の失敗だけならまだしも、誰かを失敗させるなんて、と。

 

確かに人生狂うほどの失敗や、私の致命的な落ち度のせいならば一生後悔するのかもしれませんが、

それでも、相手の人生が輝くためには、本人自身が悩んだり苦しんだり、それを乗り越えなければ「幸せ」な「満足」する人生は歩めないようになっていると、確信できるようになりました。

 

だから「恨まれるかも」「憎まれるかも」「嫌われるかも」「バカにされるかも」と思いながらも、以前のように全てを言うのではなく、たとえ相手が失敗するのが目に見えていても、「自分でとにかくやらせる」=「失敗させる」、それで帰ってこれないほどの失敗にならないよう見守るようにしています。

苦しい時に助ける、死ぬ前に助ける、または迷惑や相手の失敗を許す、ここで、初めて、人との強い信頼関係が築けます。

 

私は相手が苦しむ前にいろいろやってしまいすぎて、そうすると相手との信頼関係が築けるどころか、本当!?と、「疑い」を受けるということを学びました。信頼関係が結べないのです。

 

「苦しみ」も「努力」も本人、主人公にはかけがえのない物です。

苦しみや努力のない主人公の漫画や物語は一つもないのではないかと私は思います。

それを奪うことは、相手の「主人公の座を奪うことに等しい」と。

 

良いコーチとは、ある意味、「相手を適切に苦しませることが出来る人」なのかもしれません。

 

というわけで、今回のお話は「失敗」についてです。

 やりたいことがない方、チャレンジしない方、今のままでいいと思っている方、強い物、大きい物にまかれようとしている方、自分の判断を他人に任せている方、等など、

意識無意識関係なく、そういう自分が「どこか」に「一部」でもいる方はいます。

 

その方々がそうなる理由の一つは、多分、「失敗が怖い」からだと思います。

もう一つは、「方法が分からない」なのではないかと。

 

でも、方法が分からなくても、挑戦していけば、自分なりの方法を見つけ出すことは可能なので、やはり「方法が分からない」ことも、結局は「失敗が怖い」ということになります。

 

そもそも、チャレンジしたいことがない、という人には、

ホリエモンさんが、「やりたいことがない、んじゃなくて、できそうなことの中でやりたいことを探そうとするから、やりたいことが見つからないだけで、できるできない関係なく、やれたらいいなと思うことはいくらでもあるはず」と仰っていました。

 

結局、「失敗しそうなことはやりたくない」から、「やりたいことがない」ということになるということです。

 

この「失敗への恐怖」がどれだけ多くの人の心をゆがませていることか、と思います。

 

私も、失敗もまたかけがえのないもの、と言いつつも、失敗は恐怖です。

たまに、「やってしまった」と思うと、夜も眠れなくなるほどの小心者です。(とはいえ、切り替えて寝ることにしていますが)

 

なるべくなら、失敗なんかしたくないです。

 

周りに迷惑もかけたくないです。

 

できれば、うまくいって、周りに褒められたいし、さすがと言われたいし。

失敗して馬鹿にされるのも嫌です。

 

私が以前、失敗してしまって落ち込んでいるときに、それを相談したところ、友人はこう言ってくれました。

 

「失敗は、周りは案外気にしてないもんだよ」

と。

つまり、多分自分は完全無欠の失敗なんて一つもしない優秀な人間だ、なんて思っているのは自分だけで、周りはそんな失敗したくらいで、へー、と、騒ぎ立てたりなんかしないということです。

 

そして、また違う方はこうおっしゃいました。

 

「今の日本は、昔なら殺されちゃうことでも、ごめんなさいっていえばそれで全部済むのに、

 

みんな、ごめんなさいが言いたくない、

 

言えない人が多いよね。」

 

開き直りともとれますが、でも、そうだな、と思います。

 

やりきったら、あとは何かなったら、最後はごめんなさい、しかないんですよね。

だからといって、ペコペコへりくだる必要もありません。

だって、相手だって、自分ではできないから他人(私)に任せたんですから。

 

絶対大丈夫です!といって失敗したのなら、問題ですが、相手だって、信頼して任せたのであれば、任せた責任があるのです。

 

(もちろんどんな依頼でどんな失敗だったのかはまた個別な問題かとは思いますが。)

 

だから、私は失敗というのは最終的には、迷惑かけた人に、ごめんなさい、と言うことであり、

失敗して情けない自分というのは、自分なんかそもそもそんなにすごい人間なんかじゃないってことを覚悟しておけばよいと考えます。

 

先日人工知能のお話をしていて、ロボットと、人間の最大の違いはなにか?といったら、

決定に責任を持つこと、つまり謝罪することができること、なんじゃないかと。

 

ロボットに、ごめんなさいと言われても、なんだか謝罪とは思えないですよね。

 

変な感覚ですが、人間、生身の人間だからこそ、その人に謝ってもらうことに、意味があり、責任とはそういうことなのではないでしょうか。

 

失敗したら、自分はこんなもんなんだ、ここからまたやろう、と思えばいいだけのこと。

周りに迷惑懸けたら、心からごめんなさいという。

この覚悟を持つと、すっと気楽になれます。

 

不思議ですよね、覚悟した方が、気楽になるのです。

 

最悪、自分がたいしたことないことが世間にしられるだけ、でもそれは真実、事実なんだから、今外に出てないだけで本質的には同じこと。

そして、周りにはごめんなさい、それしかできません。

 

私は何度も何度も失敗して、しかも下らない失敗を沢山して、なんとかごめんなさいをして、周りが許してくれた時、心から反省して、次に進めました。

 

許してくれた人たちも

また、多くの方から許してもらってそこに到達した方々なのだと思います。

 

そう思った時、自分は他人のことを許してこなかったと気づきました。

 

自分なら許さないから、相手も許さないだろう、と思い込んでいたのです。

 

ごめんなさい、と言えばいい、というのは、開き直りというよりも、

結局、もしうまくいかなかったら、それしか自分にはできない、ということでもあります。

 

そんな、失敗したらごめんなさいしか言えないような自分に、それでもやらせてくれる、チャンスをくれる周りに感謝して、精一杯挑戦することが、うまくいく一つの大きなポイントなのではないかと思います。

 

そもそもこの世に生きてること、しかも日本に生きていること、全てに感謝すれば、この限られた時間で、挑戦しながら一生懸命生きる方が、

失敗を怖がり、失敗しないという幸せよりも、全然幸せだと思います。

 

三木清さんが、死ぬことは当たり前だけど、生きてることの方が夢のようなこと、とかかれています。

私もそうだと思います。

 

生きてるって不思議です。意味があるのか、ないのか。

どう生きてもいいんですが、もし自分の心の中に、実は、挑戦したい!という気持ちが少しでもあるなら、それに懸けてみてもいいんじゃないか、と私は思います。

 

世の中の社会的評価なんて、あるような、ないような、よくわからないものなんですから。

 

最終的に、自分にチャンスをくれた人たちに、頭を下げるしかないという覚悟を持つ。

ぺこぺこすることではなく、頭を下げる価値のある人になること、そのためには真摯にことに望み、周りに尊敬されるくらいまでやることです。

 

多分、その覚悟を持った人にこを、チャンスはめぐってくるし、成功も近づいてくるのだろうと思います。