WISEの本気の革命ブログ!

大学三年生で起業してはや9年目。自分に何が出来るのか模索してます

WISEのビジネスパワーブログ「(多分)98%が偽物で、2%くらいしか本物はいない、ということにまず気づくということ②」

InfiniteChange株式会社のWISEです。

弊社は、「己の志、信念を持ち、真っ当に生きることができる社会」を目指し、「起業・フリーランスの独立支援企業として、人間性をもって一線を画すこと」を目標にしています。

弊社に関わるクライアント、協力・支援企業の方々には、「自分の道を知り、歩み、本気で生きる喜びと、それを通して社会貢献する達成感」を提供させていただきます。

そのために、知識・実績のみならず、精神性を大事とし、尊敬、目標とされる人物になることを一同目指します。

 

まずは、本気で生きる、本質を自分に持つことから、「自分自身の人生が始まる」ことを提唱するため、本ブログを開設し、代表である私自身が、本気で自分の中の本質について模索、語らせていただきます。

 

これからの日本、世界が、50年、100年後、心から生きることを楽しむ人がもっと増えることを願って!(^O^)

 

(多分)98%が偽物で、2%くらいしか本物はいない、ということにまず気づくこと

オリンピックももうそろそろ終盤ですね。

前回も少し触れましたが、体操の内村航平選手は、素晴らしかったですね。

今でも感動が残っています。

特に勝利後のコメント。

「出し切っての結果なので、嬉しいというより、幸せ。」

 

例えば宝くじが当たったら、「嬉しい」でしょうが、内村選手の言う「幸せ」に到達できるでしょうか?

 

幸せは自分が感じること、というのはよく言われることですし、私もそう言いますが、こういう感覚は、あのレベルに行かなければ、内村選手だからこそ感じられる「幸せ」なのだろう、と。

 

私って、今幸せだな、と思うことはいつでもできるのですが、それとはまた少し別のように感じます。

 

自分が好きになれることを見つけ、それをやることができ、それで結果が少しずつ出て、周りに応援してもらって、自分がもっと頑張り、それを大舞台、たった一度の失敗も許されない世界で、自分の満足のいく演技をすることが出来た。その結果、金メダル、世界一の称号が取れた。

 

確かに、もう、幸せ、ですね。

 

それは、世界を超えて、時代を超えて、愛される「精神」です。

 

私は、以前「哲学なんか勉強しても、なんの意味もない、価値もないのに」と何度も言われたことがあります。(最近は私の出会う人の質が変わったのか、むしろ面白がってくれる方が増えましたが(笑))

 

でも、なら「サッカーやスポーツって、それをやって何かそこまで価値や意味、いいことありますか?」と。

お医者さんになるのでもなく、サッカーやっていたって人の命を救えるわけではありませんよね。

サッカーやって、どうやって人の役に立つのですか?

 

そういうと、ものすごく怒られるんです。

 

お前はあのスーパースターを知らないのか!?その努力も知らないで!とか、

 

スポーツを見て感動しないのか!?夢や希望を与えるんだぞ!とか、

 

スポーツは健全な精神や協調性を育てるために必要だ!とか、

 

私はそれらを否定するつもりはないですし、むしろスポーツを見て感動しますが、

スポーツをやるように、スポーツを見るのと同じように、哲学者の書いた本を読めば読むほど考えれば考えるほど、一流選手のスーパープレーをみたときのような「感動」を覚えるのです。

 

まっすぐに、曇りなき眼で自分の人生と向かっていたら、必ず、哲学者に出会うはずです。

哲学者だって皆努力しているし、素晴らしい考えや論法を生み出した人もいるし、

それで私は感動するし、人々に夢や希望を与えたし、

健全な精神を育てるためにはそれこそ哲学抜きには語れないと思います。

 

哲学を学んでも、お金にならないよ、というのと、サッカーのスーパープレーヤーになれば、ものすごくお金が稼げるよ、というのは、この世界の資本主義経済のたった一時代の一部を切り取った価値観に過ぎないと思います。

 

スポーツのスーパープレーヤーになって、お金稼いで病院作ったり、有名になってボランティアでお金集めたりして人々を助けることができるのも、現実的に素晴らしいことですが、そのお金もらえる根拠、有名になれる理由、ファンができるのは、なぜか。

 

勿論そのスポーツ自身の面白さもありますが、そのスポーツを通した「精神性」が見えるからのはずです。それに「価値」を感じるからだと。

 

だからこそ、プロスポーツ選手には「人格」が求められるのです。

 

ノーベル文学賞を取った、日本では「車輪の下」で有名な「ヘルマン・ヘッセ」の、その受賞作品は「ガラス玉演技」でした。

 

これは、私の解釈では、一種のファンタジーで、数百年、数千年後の人間世界において、哲学や文学、数学、音楽、美術、スポーツ、ありとあらゆる人間の才能の全てが融合した何か=ガラス玉演技、という種目、学問?なのか、ちょっと区分が難しいのですが、それが世界でもっと高い価値に置かれており、その演技を互いに高め合う世界、という設定です。

 

もし、そんな世界になったとしたら、ある意味哲学的スーパープレーヤーが社会的地位の最上位に位置しますし、その世界では「お金」の尺度はそこまで重要ではないはずです。

 

スポーツより哲学が素晴らしい、とかその逆とか、そういうお話ではなく、どちらにしろ、結局は精神性がそれらを通して育ち、その精神こそが人に感動を与え、残るもの=本当の価値のあるもの、になると私は思います。

 

前回のお話の続きにつなげます。

 

「本物」「良い物」「価値のあるもの」とは何か?

 

伝説の営業マンが私に言ってくれたヒントであり、答えは、

「人々に長く「良い物」「本物」「価値」とされてきているもの」でした。

 

この「長く」というのがポイントだと私は思います。

 

ヴァチカン美術館、ウフィツィ美術館、見たときに、もちろん「有名だから」「歴史があるから」より「価値」が増すのかもしれませんが、

でも、やっぱり見て思いました。

 

今の時代、これからARやVRが当たり前になって、正直ヴァチカン美術館などの作品よりも、きれいなものは、映画館の映像でだって見れてしまうかもしれないし、簡単に作れてしまうようになるのかもしれません。

 

ヴァチカン美術館、ウフィツィ美術館の作品なんかより、こっちの方がいいや、なくてもいいじゃん、なんて時代、あってもおかしくないかもしれません。

そもそも、当時の人たちの感動に比べたら、私の感動は少ないかもしれません。

 

それでも、当時、これだけのものを作った人々の「精神」が、私たちに、じゃぁ、こんなもの大したものではないじゃないか、とは思わせてくれないだろう、と私は思います。

 

長く人に「良い」と思われるもの、「本物」「価値がある」とされるものは、

どれだけ高い精神性が具現化しているか?だと、私は思います。

 

なぜ、聖書や仏教が未だに現役で残るのか?

政治利用の側面もあったかと思いますが、それでも、「イエス」「ブッダ」の精神性の高さゆえです。

 

長く残る良い物=死んでもなお続くもの=決してお金や地位・名誉ではなく、精神の結果です。

 

吉田松陰は、自分が死んで、7度生まれ変わって初めて自分をほめる、と書き残しています。

これは吉田松陰の魂観からくるもので、自分は偉人のお墓の前で涙がでるのは、偉人の魂が自分に働きかけるからであって、その時、その偉人の魂は自分の中で新しく「よみがえる」のだと。

自分も死んで、人々の心、魂に働きかけられるだけの生き方をすることが出来れば、自分はそのたび魂がよみがえることになる、それが7度起きたら自分をほめてやろう、という一説なのです。

 

生きている間のことなんか、眼中にない!!!

(この考え、志を戦中の教育で武士道精神や愛国心とで兵隊を教育してぐちゃぐちゃにしたおかげで、一部でタブー視されているのですが)

 

私は、常に本質を意識しているタイプの人間だと思います(もちろん見誤ることもたくさんありますが)。

 

日本におけるパスカルの第一研究者であった三木清さんの書いた「人生論ノート」には「死というものが確実で、生きているということの方が不安定な曖昧なもの」と書かれています。

だから「全ての観念は「死の観念」から始まる」と。

 

私は、自分は死ぬ、だから死んで残ったものが、自分の「本質的な人生」なんだと考えます。

 

生きているうちの、生きているからこその面白いこと、楽しいこと、それは十分味わいつつも、自分の本質的な「生」は、死んでから見えるものだと思います。自分の人生とは、なんだったのか。

 

「お金を残せて三流。組織(会社)を残せて二流。人物を残せて一流。」と、私を育ててくださった経営者の方がよく仰っていました。

 

精神性を磨き、それを生きているうちに社会に具現化し、人に伝えて残していけるか?が、本来の人々の真っ当な生き方の方向性と私は思っています。

 

そこで大事なのは、この「精神性を磨く」ことだと思います。

 

そのためにこそ、ここで、「偽物」「悪い物」が必要になってくるのです。

 

この世に嘘っぱち、表面ばかりなものが多いことを嘆く必要はないのです。

むしろ、それらを見極めること=自分の精神を磨くことでもあるからです。

この世に完璧な、良いものだけが存在していては、それが本当に良い物かどうか、本物かどうかを見極めることができなくなってしまいます。

だから、偽物、悪い物は、なければいけないのです。

 

さらにその先に、よりよいものどうしの切磋琢磨があります。

芸大の学長が、ほんの一握りの才能のある学生の才能をさらに、磨くために、そのほかの学生がいる、とお話されたことがあります。

 

その努力の過程がきっと喜びであり、その結果というのが、内村航平選手のいう「幸せ」につながるのではないでしょうか。