WISEの本気の革命ブログ!

大学三年生で起業してはや9年目。自分に何が出来るのか模索してます

WISEのビジネスマインドブログ「自分の人生を生きるために必要は「能力」とは」

InfiniteChange株式会社のWISEです。

弊社は、「己の志、信念を持ち、真っ当に生きることができる社会」を目指し、「起業・フリーランスの独立支援企業として、人間性をもって一線を画すこと」を目標にしています。

弊社に関わるクライアント、協力・支援企業の方々には、「自分の道を知り、歩み、本気で生きる喜びと、それを通して社会貢献する達成感」を提供させていただきます。

そのために、知識・実績のみならず、精神性を大事とし、尊敬、目標とされる人物になることを一同目指します。

 

まずは、本気で生きる、本質を自分に持つことから、「自分自身の人生が始まる」ことを提唱するため、本ブログを開設し、代表である私自身が、本気で自分の中の本質について模索、語らせていただきます。

 

これからの日本、世界が、50年、100年後、心から生きることを楽しむ人がもっと増えることを願って!(^O^)

 

自分の人生を生きるために必要は「能力」とは

私は蜂の話が好きで、どこでなぜ聞いたのか忘れてしまったのですが、蜂一匹の個体を観察し、それを分析したとしても、虫としての体の分析はできても、その機能、習性を研究しつくすことはできず、「蜂」の種、組織としての存在も分析しなければ理解することができない、というお話です。

 

蟻でも言われることですが、一部の蜂や蟻は、巣から出て餌を集めてくる働き蜂、働き蟻という者たちがいて、

女王蜂や、巣の中でだらだら何もしない個体も一部いると。

 

しかし、そのだらだらしている個体だけを集めて巣をつくらせると、その中から働く個体が一定量同じ割合で出てくる、という実験があります。

 

そう考えると、働く、働かない、というのは個体としての個性というよりは、集団における機能としての働きをしていると考えられ、種(組織)の中での役割です。

 

それを人間に当てはめて、私の感覚でいうと、完全に独立した個人の「私」でありながら、種としての「人間」が同時に成立するということになります。

 

もっと言えば、「私」という存在すらも、多くの細胞達によって構成されており、それらに「意志」がないとしても、無数の役割や機能を持ったばらばらの細胞が、「私」という存在を成立させているのです。

怠けている細胞もいれば勤勉な細胞もいるかもしれません。

 

私を構成する細胞達にはそれぞれ寿命があり、日々生まれ変わり、変化していきます。

それら細胞達には、もしかしたら「自我」やなにかしらの「意志」があるかもしれませんが、彼らは言語を持たないので、私という意識とコミュニケーションすることはありません。

でも完全に、彼らの存在によって、「私」の自我や肉体は成立しています。

 

そう思うと、自分といいながらも、この肉体というものに不思議な他人感を覚えます。

いうなれば、勤勉であり怠けものな社員(=肉体)を束ねて経営する社長が自分の「意志」(理性)という感覚です。

 

理性というものは哲学においてもとても面白い議題です。

 

神から与えられたとする人もいますし、人間しか持たないと考える人もいます。

 

例えばウィトゲンシュタインによる、

蟻の足跡をたどると、難しい数学の公式になったとして、その蟻はその式の意味を理解していると言えるかどうか?

という思考実験があります。

 

さてどうでしょう?

 

もし、蟻にそれがあると考えるとしたら、その「理性」は、「そう考える本人の理性によってもたらされる」のです。

 

相手が理性的かどうか、判断するのは、その判断する自身の「理性」です。

 

となると、他者の理性の証明を考えると、自身の理性の証明に他ならないわけで、その自分自身の理性は「直観」によって知ることができる、といったのは確かデカルトです。

 

つまり、「客観的な証明不能」ということ。「あるものはある」ということになります。

 

だって、こうやって文章を書いている私自身は、私にとっては紛れもない「私」の思考であって、それが「たまたまつむぎだされた蟻の足跡≒ロボットがランダムに打ち込んだ文章のようなもの」ではない、と断言できます。

 

この「私」が「理性」を使って、「私」の「肉体」を動かし、この文章を書いているのが少なくとも、私にとっては事実ですから。

 

でも、一人で私が書いている以上、「他人」にとっては、それは「事実かどうかは分からない」ですね。

 

これを理性をもった生きている生身の人間が本当に書いているのかどうか、そう感じるかどうかはその人の「理性」によるところです。

 

ここまで何の話をしているのだ、となりますが、「理性とは」その「理性の機能とはなにか」というお話をしたいのです。

 

これこそが、まさに「自分の人生を生きる」ためによりどころとするものだからです。

 

なぜか多くの人が、自分が「すごい!」と認める人、というわけではなく、曖昧に「社会的に評価が高い人」を意識しています。

 

正直、社会的評価が高い人の中にも本当に素晴らしい人と、そうでない人はいます。

 

勿論、社会的評価というのも一つの評価軸として素晴らしい物ですが、

社会的評価だけでなく、「自分軸の評価」を持って人を見ることが大切です。

 

「確実な根拠となる理性的判断」は、「自分自身しか持っていない」からです。

他人の理性や、他人の判断に任せる、依存することは、自分自身が持つ「理性」という人間としての最も素晴らしい重要な才能の放棄です。

 

私の知人の素晴らしい、それこそ社会的評価の高い経営者の方が先日FBで素敵なことを書いてくださいました。

 

「自分はお金のあるなしじゃなくて、相手の「愛のあるなし」で人を判断する。」

 

まさに!と思いませんか?

 

理性というのは「客観的」という意味でなく、「ものごとの根源的証明の根拠」です。

相手にお金があるかどうか、は通帳や納税証明書を見ればわかります。ただの「数字」です。

だからロボットでも判断することが出来ます(※いくらからお金持ちと言う基準は別ですが)。

 

でも、「愛」は自身の理性によって判断しなければなりません。

 

確かにこの資本主義社会においての成功者というのはお金で評価することが出来ます。

ですが、それは「資本主義社会」という土台においてのみの評価。

これは蜂が集団としての機能があるのと同様に、人間はこういった社会構造を現在作り出し、そこで機能しているためにおこることです。

 

例えばスポーツにおける選手としての優劣であり、

例えば清原選手などのように、人としてどうか?ということは別の問題です。

(一般的にはスポーツ選手として素晴らしい方は人格者でもあることがほとんどですが。例外もいるということです。)

 

 

この方のいう愛のあるお金持ちは、愛によってお金を得た人です。その人はまた愛をもってお金を使います。

 

私は愛のないお金持ちの人を何人か見たことがありますが、愛のないお金持ちの人ははたから見ると残酷です。近寄ると不幸になる気がするくらいです。

 

なぜなら、この人はお金を稼げば稼ぐほど、周りに嫌われるからです。

人から横取り、損をさせて自分が得をし、多少騙しても気づかれなければよいと思って、さらにその罪を他人に押しつけても平気。

 

そして、周りに嫌われるから、一人になり、今度はそれをお金で埋めようとします。

 

しかし、お金を使って、人にいうことを聞かせようとするので、相手は表面的にはにこにこしていても、内心ではどんどん嫌われていきます。

 

お金を稼いでも嫌われ、お金を使っても嫌われる。

 

最悪の構造だと思いませんか?

 

そんなお金持ちも存在するのです。

それは表面的にはわかりにくいです。

お金で周りに人がいるのか、愛で周りに人がいるのか。

 

ただのお金持ち、成功者といっても中身が違うんです。

これを見抜くのが「理性」であり、どういう人間になりたいのか決めるのも「理性」であり、それを使いこなすことができるのは「自分だけ」なのです。

 

理性的になる、というのは冷静になるというだけでなく、「自身で判断する」ということだと私は思います。

 

以前とても頭のいいかたが、「周りの人がほとんどうまく行っていないのなら、自分もうまく行かないだろうと思う」と仰っていたのですが、これは理性的な判断ではないのです。

 

それは客観的、冷静に判断しているようで、外のデータばかりに気を取られ、バランスが悪くなっています。

 

「理由はいらない。理屈をこねろ!」

 

と私の最も尊敬する経営者さんが仰っていました。

 

そこで、「理由と理屈の差はなんですか?と聞いたら、

 

「理由は客観的、理屈は自分が確信がもてる根拠」と教えていただきました。

 

自分が確信持てるまで考える、それが「理性の最大の有効利用」だと私は思っています。

 

そして、その自身の理性を最大に活用し、理屈をこねること、が「自分の人生を生きる」だと考えています。